川崎事件を振り返り、思うこと ~当事者と傍観者~
先日、神奈川県で痛ましい事件がおこり、
その加害者のこれまでの成育歴や事件前の近況など、様々な報道がなされています。
更に、その事件が間接的にではあるものの影響を及ぼし、
別の事件を引き起こしてしまいました。
SNSでも、様々な議論を呼んでいて、
その発言の内容をニュース等で見ながら思うところがあり、
このテーマを取り上げようと思います。
このニュースがSNSで拡散した際に、
「死にたければ一人で死ね」という強い論調のメッセージが多く流れました。
それに対し、ネットニュースで
「一人で死ねというメッセージは、むしろ、同じ気持ちに苛まれた人を追い詰めるだけで
新たな悲劇を生むことにもつながるので、控えるべきである」
という記事を寄稿された方がいらして、それに対して、賛否の声があがっていました。
私はこの一連のやり取りに関して、すごく大きな疑問を感じたんです。
「いったい、どうしたいのだろう」と。
確かに、被害者の方の気持ちを考えると、やるせない気持ちになりますし、
この事件を許したりすることはできません。
しかし、加害者や社会を糾弾すれば、この後、同じような事件は起こらないのでしょうか?
大切なのは、この凄惨で悲しい事件を
「次に起こさないために何ができるのか」だと思うのです。
ただ問題を批評し、糾弾するだけでは、傍観者と一緒です。
それが二度と繰り返さないために、自分のできることをする。
それが、当事者になるということなのだと、私は思います。
例えば、もしかしたら、地域の大人や周囲の企業が協力して、
その通学路にたった数十分だけでも「立って挨拶をする」だけでも
抑止力が生まれるかもしれませんし、そこからコミュニケーションやつながりが生まれ
この悲劇を起こさない糸口ができたかもしれません。
また、家族内やご近所間でのトラブルがあったのなら、
その人たちのために「次に行動すべきこと」、例えば行政やNPOなど相談できる場所を
SNSで拡散することだって、できるかもしれません。
さらに糾弾や非難は、場合によっては新たな「差別」を生むこともあります。
それが顕著だったのが、元事務次官が息子を刺殺したあの事件ではないでしょうか。
負の連鎖が起こった一つの要因が、
引きこもりである・攻撃的な言動などを強くメディアで取り上げられ、
「大きな事件を起こすかもしれない」という不安を引き起こした。
いわば、植え付けられた『イメージやレッテル』にあったようにも思います。
そう考えると、この問題は何をするかわからないとか、危険だとかいう
「障がいのある人へのレッテル」にとてもリンクしています。
これも、何か当事者として「行動」を起こすことで、変わる可能性が往々にしてあります。
「障がいがある」ということで、
勝手に想起されてしまっている『イメージ』を払拭するために
「障がいのある人」と「社会」ではなく、「人」と「人」として、
身近で、緊密で、その人となりにフォーカスできる機会を創ること。
例えば、近隣の人を招待してのバーベキューといった、些細なでもいいと思うんです。
当事者として起こした、小さな小さな行動の積み重ねから、何かは変わっていく。
社会を嘆いたり、加害者を糾弾したりするだけでは、事態は一向に変わらない。
そこに対して「何ができるのか」を考え、当事者として行動する。
私たち福祉に関わる人間は、やはり、世の中の出来事に対し、当事者として
何か行動を起こすべき存在なのだと。この事件を通じて、強く実感しました。
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